北前船の時代


北前船

 次に生産された商品の輸送のついて考えてみよう。昭和61年の4月、淡路で復元された辰悦丸という帆船が、江差に向けて淡路島を出発した。かつての北前船の寄港地に立ち寄りながら、江差港に到着したのは6月3日のことであった。
 「北前船」ー江戸中期に発生し、明治30年代まで大坂と蝦夷地を結ぶ日本海航路に就航した廻船である。北陸・東北からの木材や米穀、蝦夷地の干魚・塩魚・魚肥、コンブの海産物は上方に運ばれる「登り荷」であった。上方からは塩・鉄・砂糖・綿・反物・畳表・莚などの雑貨が北陸・東北・蝦夷地にむかった。これを「下り荷」とよんでいる。この船は船主が荷主の依頼によって荷物を運送するだけでない。船主が荷主をかねて、その商才をいかんなく発揮し、港々で商売しながら航行するのであった。またの名を「海の動くマーケット」という人もいる。
 荷主の依頼によって荷物を運送する形態を「賃積み制」と呼ぶのに対し、船主が荷主をかねて、商売しながら運送する形態を「買積み制」と呼んでいる。北前船はこの「買積み制」と呼ばれる経済形態の廻船であった。したがって特に定まった船の型をさすわけではない。このために用いられた船は「北国船」、「大和船」、「弁財船」、「ドングリ船」などの船型があり、特に安永〜寛政期から増え始めた「弁財船」がよく知られている。

北前船の遭難船絵馬(牧野隆信『日本の船絵馬』)

北前船の航路

 北前船の船主は北陸の港に多い。北前船の所属する港として小浜・敦賀・三国(福井)・瀬越・塩屋・橋立・安宅・七尾・黒島(石川)などがある。かつて近江商人の雇われ船頭を努めていた北陸の船頭たちが、北前船の船主に成長した。
 北前船の行きつく先は大坂である。年1度の航海を終え、船を陸にあげ冬越しのため船がこいの梱包をして養生する。大坂から故郷北陸へは陸路を歩いてかえり年越しをする。北前船の乗組員の1年の生活である。

東蝦夷地の北前船

 北前船がネモロやクナシリからサケを江戸におくる例もあったと述べた。大聖寺藩(加賀国ー現 石川県加賀市)の川湊である橋立の宮本家の山王丸という船が、嘉永3年に航海した記録の中にある例である。宮本家は近江商人の藤野喜兵衛から独立した。藤野家はクナシリ・ネモロの請負人であったので、同家の荷物積みとりでネモロ−江戸間の航路をとったと言われている。
 それでは、北前船は東蝦夷地に航跡を残さなかったのかと言えばそうではない。同じ橋立の酒谷長俊家に伝わる史料によるとイワシ粕つみとりのため茅部・樽前・沙流・根室・厚岸にきている(元治元年−1864)。その量は樽前−1万5545貫余、根室−2万2637貫余、沙流1万4585貫余、茅部ー842貫余で、買い入れ総額は3、745両となっている。ちなみにこの航海でもとめたイワシ粕など魚粕の買い入れ金額は3、833両、売あげ金額は5、992両余であった。つまり下り荷の益金は2、100両余り。このほか登り荷の益金(といっても下り荷ほど大きな利益は上がらないのだが)があって、必要経費をまかなうことができる。北前船の儲けは大きく、船5隻も持つとその利益は1万両と言われたことが、現実のものであることを知らされる。
 橋立の船は日本の北前船を代表とするものではあるが、これだけで蝦夷地の取引を表しているものではなさそうである。しだいにわかってきたことは、北前船というのは蝦夷地の産物のうちでも特にニシン粕の売買と輸送を第一とするものであったことである。このため主な船の行き先が日本海に限られるのも、しごくあたりまえのことであった。しかし、時がたちニシン粕にかわりイワシ粕をめあててにするようになると、北前船はイワシ漁にわく太平洋岸にも航跡をしるすようになった。確かに東蝦夷地へきたケースは少なくかつ時代としては遅い。そのわけはニシンからイワシ魚粕という商品へのうごきがあったようである。米屋がコンブやニシン粕をクスリ場所で渡すという条件をだしていた。米屋が商品を箱館まで運ぶとき手持ちの船で輸送していたから、漁場で直接渡すとき積みとりにきた船は買い積み船=北前船かとおもう。

北前船の時代背景

 武四郎が魚肥が上方、コンブは北陸に向けられたと書いてある。釧路以東のコンブの行先が例えば富山の薬売りによって薩摩にもたらされたり、さらに薩摩から沖縄に送られていた。道南のコンブは、敦賀を通じて上方にもたらされた。だから敦賀にはコンブを削ったり、すく(剥く)コンブ加工場が多い。これらにかわって北陸〜九州〜沖縄などに道東のコンブがでまわって、消費地のひろがりがみられる。
 いっぽう魚肥は上方の綿花地帯に供給された。近世にはいって、庶民の衣生活がそれまでの麻にかわっても木綿が用いられるようになった。柳田国男は「木綿以前の事」という本がある。柳田は木綿が庶民の生活を大きくかえたと述べている。(1)木綿は保温性や肌ざわりの上で、麻にまさっている。(2)木綿は染色や彩色、デザインをとりいれやすい。といった利点をあげている。
 北前船がしげく蝦夷地に通うようになったのは宝暦期(1751−63)である。このころ北陸−蝦夷地で活躍した近江商人の船にかわって北前船が進出する。
 その宝暦期はまた木綿生産のうえでは工場制手工業(マニファクチュア)にきりかわるときでもある。綿花から綿布をつくる方法が、それまでの農家の手工業から、工場制手工業という大量生産方式にきりかわった。庶民に広くゆきわたる木綿の需要。生産を拡大するための工場制手工業の展開。農村の綿花の増産。当たり前のように魚肥のもちいられることがいっそう多くなる。蝦夷地のニシンやイワシだけでなくマスも魚肥にかえられた。北前船で輸送のパイプがふとくなった。一方、需要にあわせたコンブや魚肥の生産のため、漁場では多くの労働者を必要とする。アイヌの自然採集経済は否定され、自然コタンはこわされて生産年齢層のアイヌは和人の漁場に集められるようになる。北前船の時代の到来は蝦夷地の産業や社会の構造をかえてしまうことになった。あるいはこの点が松浦武四郎によって鋭く指摘されるところでもある。北前船の発展は蝦夷地のコンブや魚肥の需要にみあったものである。

北前船の残したもの

 北前船は蝦夷地の魚肥を近畿や北陸の農村に普及させ、綿・菜種(なたね)・藍(あい−染物の原料)などの商品作物の栽培に大量にもちいられている。下総(しもふさ)・安房(あわ)といわれた千葉のイワシ粕が値上がりした。この価格を引き下げるために、蝦夷地のニシン粕が上方=近畿に流入するようになった。さらに、日本海のニシンの不足を補ったのは東蝦夷地のマスやイワシの〆粕であった。蝦夷地の魚肥は本州の農業の発展に貢献したけれども、このふたつの地域を結びつけたのが北前船であった。
 北前船は明治30年代にはなやかな活動をおわる。ひとつはニシン資源の不足である。あるいは汽船・汽車という新たな輸送手段があらわれた。決められた時間に大量輸送のできる汽車や汽船は北前船にとって脅威であった。
 ニシン粕のお得意さんであった綿・染料・砂糖などの農村の伝統工業は、いずれも輸入農産物の打撃をうけて、ニシン粕の需要は停滞していた。かくて北前船は終えんの時をむかえる。
 秋の厚岸湖では、アッケシソウというアカザ科の1年草が朱紅色に開花して色とりどりをそえる。道東やサロマ湖などオホーツク海の海沿いの塩沼地にもみられる。ところによっては「ヤチサンゴ」と異名のある植物が、瀬戸内海の新居浜や小豆島の塩田にも分布する。これは厚岸から持ち込まれて帰化したもの。厚岸からの帰り道、船のゆれを防ぐため積み込んでいった土(バラスト)に含まれていた種子が花開いたのだとされている。北前船が残した遺産のひとつであろう。船の調度品、美術工芸品、民謡などの文化、利益の大きさを象徴する船主や船頭の邸宅、いずれも北前船の残した財産である。この中にはアッケシソウのように、蝦夷地東部と瀬戸内海のつながりを今日に伝えるものも、ひそかに残されている。




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