●鐙啓記「北前船の残り香求め」
  昨年の春から秋にかけて七十日間、大阪から瀬戸内、そして日本海沿岸から北海道までの港町を百六十カ所ほど回った。江戸時代中期から明治時代後期に、日本海を盛んに帆走した北前船の痕跡を追っての旅である。
 秋田市にある無明舎出版の編集長、というのが私の仕事だ。北前船をテーマにした本を作る取材のため各地の港町を回ったのだが、この車旅はかつて栄えた港町の盛衰を見る旅でもあった。
 北前船は船主だけでなく、立ち寄る港町にも大変な富をもたらした。そのため最盛期だった明治時代から百年ほどたった今も、港の周辺に北前船の残り香を感じることができる場所はたくさんあった。船主や船乗りたちから神社や寺に奉納された石鳥居や常夜灯、船絵馬などは北前船が立ち寄った証拠だし、祭りや民謡、食文化など北前船が運んで各地に定着したものも多い。
 大阪や江戸で消費される米や昆布、塩干魚を始めとした物資の相当数を北前船が運び、それによって栄えた港町は大変な数であった。瀬戸内や日本海各地に点在した港町に突然スポットがあたり、光り輝いた時代は確かにあった。「日本海は表日本だった!」。というキャッチフレーズはけっして大げさでなかったのだ。
 そんな港町のなかで町並み保存が成功し、観光地としても人気がある港町も少なくないが、新幹線や高速道路、幹線道路のような交通網とは縁がない不便な地の海辺や、瀬戸内海の小島にぽつんと残っている港に、より強い北前船の幻影を感じたのはなぜだろうか。本州と四国を結ぶ瀬戸大橋のすぐ近くにある香川県丸亀市の塩飽諸島は、織田信長、豊臣秀吉の時代から塩飽水軍と呼ばれた海の男たちの本拠地だった。その中心となる本島の笠島港の前にたたずむ町並みはむかしのままで、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。江戸後期から大正時代に立てられたという家が多く、板壁や白壁に千本格子の窓があしらわれた姿は美しかった。中心となる「マッチョ通り」を歩くと春の日差しの中、おじいさんがタマネギ干し作業をしていて、横には猫が昼寝をしている。向うから歩 いてきたおばあさんに写真のモデルを頼むとこころよく応じてくれた。島のあちこちを歩き回っていると、尾上神社や塩飽勤番所などの建築物や、家々に施された虫籠窓などの細かな造作に、塩飽大工の技術の一端が垣間見られた。この技術はまちがいなく造船により研かれたものである。
 フェリーが着く本島港のすぐ前の木烏神社境内には千歳座という文久二年(一八六二)に建てられた古い芝居小屋がある。神社の鳥居の前で数人の老人が手持ち無沙汰のようにしゃがみ込み、雑談していた。まるで時間が止まってしまったような島の一コマだ。こんなのんびりとした風景からだけでは、小さなこの島が「塩飽衆」と呼ばれた勇壮で卓越した操船技術を持つ船乗りや船大工を、日本中の港に送り込んだ場所とはとても想像できない。勝海舟が乗りアメリカに渡った咸臨丸の操船も彼らだった。
 日本海側の島根県大社町鷺浦という隠れ里のような港町の一軒に「塩飽屋」と屋号の表札が掛けられていた。秋田県能代市や青森県川内町のお寺には塩飽衆の墓が残されていた。北前船の寄港地には各地でこうした塩飽衆の足跡を見ることができる。
 笠島港を見下ろす遠見山から、瀬戸内の島々の間を縫うように走る何艘もの船を見ていると、塩飽衆が、日本中の海を我が庭のように船で走り回っていた姿がまぶたに浮かんだ。
朝日新聞夕刊文化欄02年8月10日号より


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