北前屋のマ−クとデザイン文字    
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家 紋 千社札 手ぬぐい 引き札

■  家  紋





 


今、昭和30年代のグッズが若者のあいだで人気がありますし、江戸時代の文化も注目されています。また、浅草、金沢、仙台などは江戸時代に使われていた旧町名の復活が盛んにおこなわれています。

ここでは、歴史ある日本独特な家紋、北前船が運んだ引き札、江戸文化が育んだ手ぬぐい、江戸っこの「粋」を表現した千社札を紹介します。

どれも、江戸の文化が現在でも通用するデザインとしてつくり上げた、世界に誇れる造形です。この日本のKATACHIを新鮮な気持ちで、新しい視点から見ていきたいと思います。







広重 江戸日本橋


■ 家紋の歴史とデザイン

古墳時代の六世紀ごろ、仏教文化が中国から朝鮮半島の百済を経由して日本に伝来しました。それにともなって、大陸スタイルの建築・美術・工芸が日本の美術文化に強い影響をあたえます。

その後、その模倣と影響から独り立ちするようになり、日本の風土に根ざした形がしだいに出来てきます。 いろいろな日本文化が開花した平安時代に、紋章の原型であるデザインが登場してきて、国風としてのスタイルが確立していきます。

そのパタ−ンは貴族の教養と趣味を反映し、繊細で優美なイメ−ジな文様が多く、題材はもっぱら植物が選ばれています。やがてこの文様は家のシンボルとしての家紋と発展していきます。

その一つの例が、紫式部の表した『源氏物語』五十四帖に因んで、源氏香があげられます。当時の貴族の間で、さかんに香合せが行われ、この香包みにつけられた符号が源氏香図であり、それを図形化したのが右図の源氏香図紋です。




 

浮舟
うきふね

若紫
わかむらさき

須磨
すま
帚木
ははきぎ
夢浮橋
ゆめのうきはし
若菜下
わかな

ほたる
薄雲
うすぐも
花宴
はなのえん

源氏香図紋
www.aoiweb.comより引用)


鎌倉時代は、武士同士が同族の連帯感を表すしるしとして、誰にでも識別できる単純明快なものでした。戦国時代になると、広い戦場であの紋は誰々とすぐにわかるように、自己の存在をアピ−ルするために形象化されます。

著名な武家紋
毛利元就
武田信玄
真田幸村
明智光秀
織田信長


そうして、ながい戦国の時代も関が原の戦いで終止符をうって、戦のための紋の役目と目的も終わります。江戸幕府の完成により家紋は、武家社会の階級と家の格を示すシンボルへと意味づけられていきます。

安定ム−ドのもとで、力のある大名は栄誉と権威ある貴族の家紋にあこがれ、政治力と財力を使って手中に収め、格式の高さを誇示しました。


歌舞伎 連獅子
隈 取 り
弁慶
矢の根

江戸の中ごろになると、緊張感のなくなった沈滞ム−ドの武家階級とは対照的に、財力を蓄えた新しい勢力である町人たちが出てきます。その富力で歌舞伎芸能とむすびついて、江戸の趣味が形つくられていきます。

著名な武家紋
伊達政宗 大石内蔵助
大岡越前
長谷川平蔵
坂本竜馬

こうして庶民の感性がもりこまれた紋が創作されはじめ、町人の気質と才能を表現したものに変化していきます。武家紋のもつ硬く冷たい印象とは対照低に自由な江戸庶民のもつ性格がそのまま象徴的に形になりました。

 


ルイ・ヴィトン
「モノグラム」

日本の紋章は、実にシンプルで洗練された美しさがあり、力強い厳しさをも底に秘めています。そのデザインは日本の価値観や文化をみごとに表現しています。

あのルイ・ヴィトンの定番「モノグラム」も、日本の家紋にヒントを得てデザインされたものだそうですから驚きです。

家紋は、図案化された植物や動物や幾何学模様などが、丸や四角などの形におさめられた、西洋のものに比べて非常にシンプルなモノトーンの紋章になっています。そこに日本的な美学をデザインとして世界にまで提案しています。

お気に入りの家紋
丸に桔梗
丸に隅立四目
源氏車
梅鉢
丸に三鱗
丸に四目菱
鷹の羽
丸に三星
丸に地割剣片喰
左三巴
(家紋の画像はwww.asgy.co.jp/kamon/kamon.html より引用 )

このように脈々と伝えられてきた家紋には、日本らしい美しさがあります。そこには、日本の伝統と歴史の魂さえも感じられると思うのです。



以前、家紋はどうも古臭い先入観があって、どうしてもなじめない部分がありました。封建社会の閉ざされた感覚が暗いイメ−ジとなって、そこからつい目をそむけてしまい、真正面から見ることが出来ませんでした。

ところが、家紋の歴史とその背景を知るにつれて、日本人としてその重さを感じるようになり、北前屋のトレ−ドマ−ク を家紋風で表現してみたくなりました。右の画像がそれです。

家紋の分類からすると、菱に算木紋というふうに呼ぶようです。シンプルでしかもそこに伝統と文化が感じられ、また意味のある形にしたかったのですが、できばえは少々堅苦しくなってしまいました。

横線三本はソロバン発明以前の木製計数器(算木)を意味し、菱は風を受ける帆、船の船体を図案化したつもりです。



* このぺ-じは、おもに「 日本の紋章」 伊藤幸作 編 ダヴィット社と
興味ある インタ−ネットのサイトを参考にまとめたものです。


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■ 千 社 札 




 


『♪この子の七つのお祝いに  御札を納めに参ります♪』 と唄われている『御札』が千社札です。

神社におまいりに来た庶民が、幸運を祈るとともに、自分がおまいりに来た証拠として、自分の名前や出身地などを書いてシールにして貼って行きました。






北斎 江戸日本橋

■ 千社札 (せんしゃふだ又はせんじゃふだ)

平安時代中期の頃に始まった『千社詣(せんじゃもうで)』がその始まりと考えられ、
貴族・武家が中心で庶民のものではありませんでした。

江戸になって、町人たちに親しまれたのは『千社詣』という肩苦しいものではなく、もっと庶民感覚で『千社参り』としてとらえていたようです。

世の中の安泰、家内安全・無病息災・商売繁盛などの願掛に出かけたそうです。

江戸中期に庶民の信仰から納札が誕生し、「千社参りの札」を略して「千社札」と呼ばれるようになります。

 

こうして、本来は信仰目的だったものに、遊びの要素が加わってきます。

それがいつしか江戸っ子の趣味となり、自分の札の作成に「粋」と「洒落」をおりこんで、さらに遊び心、洒落が加わるようになります。

浮世絵師、彫り師、摺り師の手による贅の限りを尽くしたものが作られるようになり、交換する会までができて現代まで続いています。

 

■ 江戸文字

江戸時代の文化から発達した我が国の図案文字の総称です。この代表的な書体として一般に知られているものに次のものがある。

歌舞伎の「勘亭流」、相撲の「相撲文字」、寄席の「寄席文字」、千社札の「千社札文字」を総して江戸文字といいます。 その他にも、ひげ文字、 籠字(かごじ)、角字、丸字、浄瑠璃文字と個性的な字体があります。

このように、江戸文字は、江戸時代に盛んに使われて親しまれた、本来は用途の違う数種類の文字を総称したものです。それぞれの文字が別々の名称を持ち、使われる場所も違っていました。

千社札だけが職業に関係なく個人的な世界のもので、絵師、文字師、彫り師、摺り師と工程を経て和紙に仕上げる一枚の庶民芸術の札でした。

 


江戸文字のいろいろ
勘亭流

江戸でお家流の書体の先生をしていた岡崎屋勘六が、小屋が不入りのとき、たまたまこの独特の書体で看板を書きました。

そうしたら、にわかにお客の大入りを記録し、評判となったため、勘亭と号して小屋専属となったのが始まりといわれていて、歌舞伎文字ともよばれます。

相撲文字
一枚の紙にぎっしりと書かれ、下のほうへいくと小さく細長く読みづらくなってきます。このように書き上げるのは力士が互いに押し合い、もみ合っている様を示すといわれます。
寄席文字
神田の紺屋職人が、勘亭流と提灯文字を基にして、寄席特有の書体を生み出したというのが寄席文字の起こりとされています。
千社札文字

千社札にはよく籠字が使用されていましたが、明治に入ってから千社札文字を「江戸文字」と呼称されるようになったといいます。

ひげ文字

ひげ文字は、文字のはねの部分がかすれて人間のひげの状態に似ているところから名付けられました。

籠 字
ひげ文字のデザインが進化して、籠字(かごじ)となったといわれています。 籠を透かしたときのように白く抜けて見えることからこの呼び名が付けられたということです。
角 字

一字を正方形の中にきちんと四角におさめてしまうものです。主に伴天の背紋や腰の部分のデザイン文字に使われます。

■ 千社札の様式                       

千社札は短冊形に切った紙片に、題名「住まい、氏名、雅号(がごう)、店の屋号、家紋」などを江戸文字で書いて、また太い線と細い線の2本の子持ち枠で囲んだものをいいます。 

千社札本来の基本サイズは、一丁札と呼ばれる紙サイズで、幅58ミリ×高174ミリです。子持ち囲みは2重罫線のことで、外枠が太く内が細くなっています。罫囲みの寸法は、外寸で幅48ミリ×高さ144ミリで、1:3の比率です。

用途によってニ種類に分けられ、一つは、神社仏閣に詣でたさいに、山門やお堂に貼りつけてくる木版墨一色の黒札である「題名納札」、信仰のための「貼り札」です。

そして、もう一つは多色づりの色札である「交換札」です。江戸っ子のユーモアある発想から、オリジナル札を木版画と融合して「納札交換札」が生まれました。

「士農工商」の江戸時代に、納札愛好家による「交換札」の交換会は趣味という共通目的のなか、喜びを分かち合うことで武士も町人も交流を持ち、平等の社会だったそうです。

 


現代版の千社札
本千社札
赤文字札
絵千社札
柄千社札
家紋千社札
現在の千社札ふうの江戸木札
江戸札
福 札
睦 札
さし札
家紋札


このぺ- ジは興味ある千社札、江戸文字についてのインタ−ネットのサイトを
参考にまとめたものです。引用したサイトに関してはリンクにてご紹介します。



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■  手 ぬ ぐ い 




  このペ−ジにある手ぬぐいの画像は、インタ−ネット上に紹介してありました江戸手ぬぐいを参考に、北前屋がアレンジしてデザインしたものです。

江戸の粋な文化が、かえって新鮮味があって、現在の広告媒体にも十分に使える様式だと思います。

昔、粗品として実用的なものをもらっていましたが、こんなおしゃれな手ぬぐいなら手元に置いておきたいです。







北斎 上総の海路


手ぬぐい

室町時代末期に中国大陸より綿種が渡来して、江戸時代には、木綿が庶民の衣料材料として麻にとって代わります。

江戸幕府も農民の着物は「布木綿たるべし」と通達すると、畑だけでなく田にも綿を栽培する者が急増し、木綿の生産が普及されるようになります。

この木綿さらしの布に驚くほど粋で、いなせな江戸のデザインが吹きこまれていきます。

木綿てぬぐいも時代の推移とともに、冠(かむ)りから、被りへ、そして日常的な生活用具として実用とお洒落を兼ねたものとなっていきます。  

江戸中期には、若い娘たちにとって五尺てぬぐいはあこがれであり、若い衆から贈られる五尺てぬぐいは求婚を意味し、受け取れば婚約成立にもなったそうです。

宣伝用に手ぬぐ いを配る風習の始まりは、江戸時代中期。歌舞伎役者が、襲名のお披露目や舞台の出演挨拶として、ごひいき筋に配ったのが始まりだそうです。その風習が現在でも続いているわけです。

 



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■   引 き 札
 




  最近、よく江戸をテ−マにしたテレビ番組を見かけます。また、グッズなんかも、江戸のデザインと江戸文字を盛り込んだ商品が出てきています。
ここでは、北前船が運んだ、江戸と明治の広告用の引き札をテ−マにして、そのデザインを利用してみようというコ−ナ−です。

古くさいという先入観があったのですが、実際にアレンジしてみると、インパクトがあって新鮮に思えてくるのですから、不思議です。







北斎 神奈川沖浪裏



大阪西横堀 辰巳久左衛門

■ 広告塔の引き札

さかのぼって、印刷された広告物を見るとき、江戸時代の「引き札」がそのルーツにあたるようです。 かわら版が今の新聞だとしたら、引き札は現在の「ちらし」とか「ポスター」にあたります。

江戸時代から大正にかけて商品や商店の宣伝のために正月用として特にめでたい図柄(七福神、日の出、富士山、松竹梅、鶴亀)のものを年末年始に配っていたようです。その中でも多色刷りに人気がありました。

今でも会社などがカレンダ−を配っているのはこの流れであり、広告のル−ツとなっている。内容は、宣伝効果を一層高めるために有名な絵師や戯作者に頼んで版木を作り、豪華な多色刷りの横に自分の店の広告を入れるというものです。

商店ばかりでなく、花柳界の吉原や歌舞伎役者もこの引き札の媒体を活用して名前を売っていました。

 

 


加賀国橋立 横山商店

1683年(天保三年)に江戸の日本橋・駿河町に呉服店「越後屋」が開店した際にこのような引き札を配ったという記録が残っています。

そのキャッチコピ−は、「呉服物現金安値無掛値」というもの。

つまり、「越後屋は呉服を安く皆様に奉仕します。値引きもしませんし、掛け売りもしません。お客様はご来店の上、現金でお求めください」という内容でした。

その後、越後屋は江戸一番の呉服店にのし上がって「三越デパート」になります。 当時としたら、この時の引き札が、現代のコマ−シャル以上に、庶民に対する影響力があったようです。


山口縣 和田屋喜兵衛

その後江戸・大阪を中心として、各種業種の引き札がつくられ、一般庶民に広告として配られていきます。

引札は絵ビラとも呼ばれていましたが、印刷技術の進歩は、絵ビラの大量印刷や多色刷りを可能にし、人々の暮らしを彩りました。

しかし、それは同時に絵ビラの衰退へとつながるきっかけともなりました。 活版印刷が登場し大量印刷が可能となったころから、新聞の発行部数が飛躍的に増大し、引き札の役目をマスメディアが引き受けてしまう結果となってしまったのです。


 

■ 北前船と引き札

北前船は、日本海を利用して大阪から蝦夷へと向かった下り航路、蝦夷から大阪への上り航路を一年をかけて往復していました。全国規模で営業していましたから、各地の引き札を集める能力がありました。

日本海沿岸地方の物産品を運んでいましたから、引き札の特徴も各々の港町に存在する、船問屋発行のものが主でした。

一般的に、引き札は江戸・大阪など人口集中している大都市とか地方都市で、一般の生活者に対しての広告物です。普通の消費者を対象とするのが普通なわけです。

ところが、北前船が集めた引き札の対象者は一般市民が主ではなく、北前船の船主、船頭、という経営者側に対してのものでした。商業上の取引相手に対する営業戦略の一部だったようです。

 

 


備中玉島港 井上栄三郎



加賀国江沼郡 島崎徳輿問

■ 引き札のアレンジ

江戸や明治のデザインを利用して、現代版バ−ジョンの引き札を作製してみました。


尾道湊 富安佐助本店 アレンジ

 


讃岐国高松 合田市平 アレンジ


秋田士崎港 木津利吉 アレンジ



ここに載せてある引き札の画像は、北前船の里資料館編集 
「引き札の世界」 より引用して、 北前屋がアレンジしたものです

 


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